日大生産工学部建築工学科

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「災」の一年:川村 政史 教授

カテゴリ :
教員コラム
更新日時 :
2011年12月16日

今年もいよいよ押し迫り、新しい年を迎える準備に取り掛かる今日この頃であるが、平成23年という年は、小生にとって忘れられない特別な最悪の年になりそうだ。今年の一文字は「絆」であるが、学生アンケートによる学生にとっての一文字は「災」なんだそうである。小生もどちらかと言うと学生の一文字に近い。もうこれ以上悪い事が起こらないことを祈っているし、早くこの嫌な年が過ぎてほしいとも望んでいる。

福島原発のこと
原子力発電はウラン、プルトニウムが核分裂反応をする際に発生する熱で水を沸騰させ、水蒸気で蒸気タービンを回して発電する。小生の実家は福島県白河市である。妻はそこから20kmほど離れた棚倉町の出身である。3月11日午後2時46分に発生したマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震とその余震の津波によって福島第一原子力発電所1号基および3号基が水素爆発を起こし放射性物質が飛散し、県内の中通り地方から海岸沿いの浜通りはかなりの放射能汚染地域として、南相馬地区、浪江地区、大熊地区など立ち入り禁止となった。さらに厄介なのは風評被害で福島県内に住む人々は苦しめられている。小生もその風評による被害者ではないかと思う。老後をのんびりと過ごそうとして白河周辺に確保していた不動産が全く売れなくなってしまった。白河近辺の放射能は0.3~0.4マイクロシーベルトと低いのだが、それでも土地・家を購入する人はいないのが実状である。そもそも、原子力発電は国策として位置づけられ、昭和38年頃から盛んに建設がはじまった。現在、日本はアメリカ(104基)、フランス(59基)に次ぐ3番目の54基の炉数を有している。しかし、日本は世界で原子爆弾により広島、長崎の住民を苦しめさせた唯一の被爆国である。この苦しみは日本国民ならば知らぬ人はいないであろう。原子力発電は何故安全なのか?何故原子力の平和利用の号令のもと利用することになったのか疑問に思う。唯一の被爆国ならば世界に原子力の恐ろしさを訴え、別のエネルギー開発をアピールすべきであったように思う。批判を覚悟で言うならば、「安全神話」を押し進めた責任者の判断の誤りとしか言いようがない。基本は、日本は原子力を使ってはいけないのだ。

津波のこと
津波を抑えることはできない。しかし津波から生命を守ることは可能である。津波避難ビルは津波到達までに避難所や高台に逃げられない住民が短時間で緊急避難する施設で、東日本大震災を受け、国土交通省は11月17日、「津波避難ビル」の整備を促進するため構造要件に関する暫定指針を策定した。また、住民の高台移設などが話し合われている。ただし、これらにも幾つかの欠点がある。今回の様な津波を誘発する地震発生の周期はおおよそ600年~1000年という。人間の世代交代する周期が50年~60年とすると6~10周期となる。「忘れたころに襲ってくる」これらの災害にマッチするだろうか?忘れたころに当時を記録した古文書を読んだとしても深刻な考えは薄らいでいるであろう。持続可能なビルがはたして建て続けられるだろうか。はなはだ疑問である。小生はそれよりは土嚢を積むがごときの小高い山に似た堤防を建造することを考えている。これを里山堤防と名付ける。そもそも里山とは都市と自然の間にあって、人が利用してきた(いる)森林を言うのであるが、山から餌を求めて人間の住む都市に出没する熊、イノシシ、猿、等の動物をここで抑える機能も有する。一度造ってしまえば永久に存在する。里山堤防の高さは50~60mもあれば過去の津波からして十分の高さである。問題はいかにして土工を実施するかである。しかし、明治時代の終わりごろに治水のために工事した都内を流れる荒川の工事実績を考えればできない話ではない。財源はどうする。永久に存在することを考えればそれほど高値ではない。危険な地域はどこか。これについてもコンピュータシミュレーションで把握できるはずである。後は津波が来れば里山堤防の頂上めがけて逃げればよい。

液状化のこと
液状化は水で飽和した粒ぞろいで緩く堆積した砂質地盤が震度5程度以上の強い地震動を受けて液体のようにふるまう現象である。飽和した砂質地盤は強い地震動をうけると短時間に体積を縮小しようとするが、水が逃げ切れないので砂粒どうしが形成するすき間(間隙(かんげき)の水圧が上がり、それが砂粒どうしの押し合う圧力(有効圧)をしのぐと、地盤全体が水よりも比重の大きい液体の状態になる。地盤が液状化すると、砂まじりの水が地表に噴出したり、地盤が亀裂したり沈下したりして、惨害をおこしやすい。液状化を防ぐには、地下水位をさげ、地盤を締め固め、土の粒度分布を変える。また、構造物を液状化しない深所に定着させるなどの対策がある。なお、寒川旭著の「秀吉を襲った大地震」によれば、神戸市の玉津田中(たまつたなか)遺跡および尼崎市の田能高田遺跡では液状化跡が見つかっていて、それによれば礫層でも液状化が発生することを写真入りで紹介している。
液状化が世の中に知られるようになったのは1964年に発生した新潟地震によって、信濃川沿いに建つ川岸町の県営アパートが横倒しになった被害が報道されたのが初めてだと記憶する。大学に残って間もなくのころ小生は研究テーマで苦しんでいた。元日本大学副総長の金井清先生が液状化の研究はまだ進んでいない。と言うようなことをおっしゃった。早速小生は液状化の研究に取り掛かった、しかし、残念ながら、どこから手をつけたら良いのか皆目分からなかった。田治見先生のもと修士論文は砂地盤の減衰定数に関する研究をしていたから土槽を持っていることもあってその土槽に砂を詰めて水を入れて振動させる程度の知識しかなかった。残念ながら頓挫した。

今回発生した地震による液状化による被害は建築に携わっている者として考えさせられる。戸建て住宅には液状化を考えた建築がされてこなかった。今、国の予算で救済しようとしている。液状化による建築物の被害は前述の新潟地震以来必ずと言ってよいほど報道により知らされている。そもそも、液状化は起こるべくして起こったのであって、建物に携わっている者が地盤のことをないがしろにした結果が報道のような被害なのであって、責任は非常に重いものである。8カ月も経過した今頃になって、売主の責任を追及しようとする機運が動き出した旨を朝日新聞千葉版が伝えていた。

田治見宏先生のこと
日本大学名誉教授で元理工学部建築学科主任教授の田治見宏先生との出会いは小生が短期大学部の1年生の終わりごろであった。この津田沼キャンパスは当時短期大学部があって理工学部経営工学科と同居していた。ここに日本大学名誉教授で元生産工学部長の宗 正敏先生の実験室があり田治見先生と共同で砂地盤における振動支持力性状の研究の実験をされていた。実験装置は田治見先生が試作したもので。2本のアンカーで固定したビーム上に短柱を立て防振ゴムを介して土槽と起振機を吊るし、起振機もろとも土槽を揺らすと言った非常に理解しやすい振動実験装置であった。そこに遊びに行ったときにたまたま田治見先生が学生指導のために訪れていた。当時は研究室旅行があり、小生も卒研生の仲間に入れてもらって軽井沢の別荘、草津温泉等にくっついて行ったのを覚えている。その後、小生は理工学部建築学科に編入し、卒業と同時に生産工学部に残り、副手を2年経て大学院に進むことになった。指導は田治見先生である。大学院修了時に先生から大学に残るよう誘いがあって現在の小生がいる。修士論文は背の高い土槽に砂を入れ振動台でせん断振動させ、砂層の減衰定数を求める実験であった。その振動台は当時理工学部の機械であったから、生産工学部と名前が変わったために習志野にある現理工学部船橋校舎に移転してしまった。36歳の専任講師になったときに先生から、杭を有する建築物のロッキング振動における杭の引き抜き性状を模型実験的に調べるよう課題が出された。大変難しい課題であり、前述の振動実験装置を使って実験したが結果的に失敗に終わった。理由はいくつか挙げられるが、模型実験をするには膨大な金額と人力を必要とすることを教えられた。その先生が4月16日に肺炎で亡くなった。大変残念である。先生には借りを沢山作ってしまった。田治見先生のお別れの会が7月14日に行われた。計画段階では小生も田治見会主催であったから当然協力体制として参画していた。しかし田治見会メンバーでない参加者選びでつまずいた。どうしても納得がいかなかった。悔しいかな一人で「お別れ」をした。

笠井芳夫先生のこと
10月18日日本大学名誉教授の笠井芳夫先生が亡くなった。女房と菊池寛美記念・智美術館で開催されている細川護煕元首相の美術展を見た帰りがけ、銀座の山の手線沿いにある小さな餃子店でビールを飲みながら美味しい餃子を食べて家に帰る予定で赤坂駅に向かっているところで、湯浅昇教授から突然の情報が入った。湯浅教授もかなり興奮していて話が聞き取れない部分もあったが、笠井先生が船橋医療センターに緊急搬送されたと言うことであった。急遽予定を変更し先生のもとに駆け付けた。クモマッカ出血で重傷であった。100歳で亡くなられた金井先生と同じくらい長生きをしてくれる先生と思っていたし、信じていた。亡くなられる直前まで元気に活躍されていた。5号館の実験準備室の窓際に笠井先生がまいた水仙の種が芽を吹き出して寒さに耐えて春を待っている。大事に育てようと思う。
笠井先生には現在の小生をここまで導いてくれた大恩人である。研究者たるものはどうあるべきか、研究の仕方、論文のまとめ方、一つ一つ基本から教えて下さった。感謝に堪えない。心残りが二つある。一つ目はまだまだ教えを請うところが沢山あった。先生と共同で研究していたソイルセメントコンクリートのことで、例えば、混合されたソイルセメントコンクリートのセメント含有量を知る方法とか、発熱温度と強度との関係、土の表乾状態の存在を証明する方法などは是非実現したかった。 二つ目は、先生は材料界で権威のあるLILEMに論文を投稿することを切に望んでいた。笠井先生とお付き合いのあった元生産工学部で非常勤講師をしていた多田眞作先生の巧みな翻訳のおかげで、かなりの質問事項および訂正事項をクリヤーして第1報目の論文を掲載し、別刷りをお渡しすることができた。第2報目の別刷りを残念ながらお渡しすることができなかった。時期を逸した。2報目を見ずに先生は亡くなってしまった。残念でたまらない。

最後に、今回の地震による津波による被害、液状化による被害、原子力発電所の水素爆発による被害。これらの災害は全て人災だと思っている。津波の高さは過去の貞観津波の記録で既知である。それを参考にしなかった。液状化は建築に携わっているものが、建物の安全性を無視したために起こしたものである。原子力発電所の被害は「安全管理をないがしろにした」ものであると言いたい。

教授 川村政史(地盤工学)記

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